新しいハウス

最後のお別れをしてから、かりんの身体は小さな骨壺に納まってしまいました。
私はかりんのお墓を作るつもりは全くなかったので、骨壺をそのまま家に置いていたのですが
ずっとそのまんま…というのも何となく落ち着かない気がしていました。
そこで、かりんには新しいハウスに入ってもらうことにしました。

とてもシンプルなハウスで、結構気に入っています。
「う~ん、なかなか♪」と、かりんも喜んでくれているでしょうか。
かりん、ハウス!」と言うと、チャチャッと入ってくれていたのを
懐かしく思い出しました。

こうしてかりんに関わる何かを、一つずつ片付けたり整えたりすることで
自分で自分の気持ちを整えようとしているのだと思っています。

あぁ、それなのに。
かりんがいた日々は夢だったのか? かりんのいない今が夢なのか?
そんなことを、ふと思ってみたりする自分もいるのでした。
今は、ただただ、かりんがいなくて寂しい…の一言に尽きます。

でも、こんなことを書いているとかりんに笑われてしまいそうなので
クリスマスの今日は、サンタケープをまとった9歳のかりん
再登場していただきましょう。

みなさん! ☆ MERRY CHRISTMAS ☆

肉球クリーム

なぜ今頃、肉球クリーム?
…なのかと言うと、撮影したものの投稿しそびれてそのまんまになっていたのです。
もうかりんはいないけれど、記録として残しておこうと思います。

普通に歩いていれば足裏の古い角質は少しずつ削れ、必要以上に厚くはならないのでしょうが
かりんの肉球の角質層は分厚くなり、ガッチガチに硬くヒビ割れたみたいになっていました。
まるで劣化して硬くなったタイヤみたい。
そして、たまに角質の小さな欠片が落っこちているのを目にするようになりました。

気になったのでドクターに相談したら、獣医師監修の肉球クリームを取り寄せてくださいました。
質感は、私がここ数年愛用しているオーガニックシアバターとよく似ていて硬めなのですが
指先で表面を撫でていると、体温で少しずつ柔らかくなります。

大豆種子油・植物油が原料なので当然の如く舐めても安心。
けれど、この頃のかりんは自分の足を舐めることすらできませんでしたから
クリームは舐めとられることなく、その成分は100%肉球に浸透していきました。

塗った翌日あたりから、硬い角質が少しずつ柔らかくなりポロポロ取れるようになりました。
赤い矢印がガッチガチ状態の角質で、青い矢印がガッチガチの角質が取れた部分。
分厚い角質が取れたあとに顔を覗かせたのは、元気な肉球でした。

ガチガチの肉球になってから、かりんの足裏は香り立つニオイが全くしなくなっていました。
「ニオイが枯れたのかなぁ」などと思っていたのですが、分厚い角質が蓋をしていたようで
角質が取れたあとの肉球からは、ほんのりと懐かしいニオイがしました。

クリームを使い始めたのが10月の初旬なので、ほんの少し使っただけになってしまいました。
塗る時に取れた角質の欠片が私の指先にくっつき、黒い点となりクリームに埋もれています。
もう使うことはなくなってしまったけれど、時々蓋を開けて眺めています。

健康手帳

我が家に迎えてから15年8か月の長きにわたり
かりんは一人のドクターにずっと診ていただきました。
ドクターは中学の時のクラスメイトで、友だちでもありました。

犬と暮らせる環境になり、真っ先に相談したのがドクターで
「飼い主を募集している犬がいたら教えて」と、お願いしていました。
程なくして、当時、個人で犬の保護活動をしている方を紹介してもらい
かりんとの縁が繋がったというわけです。

さて、お世話になった病院には【健康手帳】なるものがありました。
犬猫と暮らす上で、飼い主が知っておくべき病気のことなど
ドクター自身の言葉でわかりやすく丁寧に書いてあります。
そして、そのあとに続く、罫線が印刷された空白のページには
来院日ごとに、その内容等が簡潔に記されます。

2006年4月1日:混合ワクチン(2回目)体重6.1kg
に始まり、20ページにもわたってかりんの受診等の記録が並んでいます。

2021年11月2日:虚脱  入院
これが最後の記録となり、これ以降、記されることは叶いませんでした。

自宅で看取るため、入院していたかりんを連れて帰ろうとした時
「覚悟はしていたつもりだけど、やっぱり…すごく辛いね」という言葉が
 私の口から思わずこぼれました。

「立てなくなってからの世話は本当に大変だけど、よくやってたと思うよ。
 もっと何かできたんじゃないかと自分を責めてしまいがちだけど
 そんなことは思わなくていい、100%頑張ったんだから…」
いつも沈着冷静で、気休めの優しい言葉などかけてはもらえないのですが
ドクターのその言葉に、私の心がふっ…と軽くなったのは言うまでもありません。

それでも、もっとそこに記されていたかもしれない【健康手帳】の空白に
私の心は時折チクンと痛むのでした。

お別れまでのこと

かりんとの大切な思い出の記録として、ここ数日のことを書いておきたいと思います。
こうして、思い出しながら言葉を紡いでいると、かりんを近くに感じることができますし
少しずつですが、私の心も穏やかになっていくような、そんな気がします。
(長文です)

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一昨年の11月、かりんの歩みがおぼつかなくなり始めました。
そして、昨年の10月から約1か月の長きに渡りポンポンがピーピーになっていました。
そういう訳で、かりんにとって10月・11月は【要注意】の時期でありました。

しかし、その大きな二度のピンチを乗り越え、受け容れながら頑張ってくれたかりん
三度目の奇跡を願いましたが、残念ながらそれは叶いませんでした。

実は☆16歳の誕生日☆を迎える数日前あたりから、日を追うごとに弱ってきていました。
今までなら、食事の後半に差し掛かると、「もういりませ~ん」と大声で鳴いていましたが
だんだんと鳴き方が弱くなり、ついには鳴かなくなりました。
口にフードを注入してもほとんどモグモグすることなく、フードを口に含んだまんま
目を閉じてボーッと固まってしまうようになりました。

また、座薬なしでは夜鳴きが酷くて大変だったのに、誕生日の夜は座薬なしで翌朝まで寝て
一向に起きる気配がなく、意識が朦朧とした感じでずーっと眠り続けておりました。

☆16歳の誕生日☆の写真は前日に撮ったので、比較的パッチリと目が明いているのですが
もしも誕生日当日の撮影であったなら、こうはいかなかったと思います。

2日の夕方、病院へ連れて行って血液検査をしたところ、腎臓の数値が驚くほど悪くなっており
それと同時に電解質異常が見られ、こちらの数値も酷く高くなっていました。
こうなると、皮下補液ではなく静脈からの補液で数値を下げなければならないので
翌日が祝日のため4日まで入院することになりました。

4日の夕方、ザワザワした気持ちを抱えながらかりんを迎えに行きました。
点滴によって電解質異常は改善したのですが、腎臓の数値は期待したほどの改善がみられず
腎臓以外の数値も非常に高くなっていました。
慢性腎臓病末期の尿毒症による、いわゆる多臓器不全。
かりんの身体は、もうこれ以上はないくらいの限界に達していたのです。

「厳しいことを言うようだけど、もう、そろそろ…だよ」とドクターが静かに言われました。
かりんにしてやれることはもう何もなく、あとはそばにいて見守るだけとなりました。

我が家に連れて帰り、いつもいる和室に寝かせたら、自宅に帰ってきたのがわかったのか
それまで閉じていた目が少し開いて、母さんたちの声にちょっぴり反応しました。

寂しくないよう和室からリビングのテレビの前に移動し、母さんたちのそばに寝かせました。
口をモゴモゴさせるのでシリンジで水を垂らすと少しだけ飲み、「ふわぁ~」と大きな欠伸を2回。
その姿にいつものかりんを見て、大いにホッとした母さんたちでした。

夜10時半、いつものようにかりんの横に布団を敷き、寝転がって目線を同じくして見守ります。
かりんの顔を見つめつつも、心臓が動いているかどうか、常に身体の上下動を気にしています。
こちらを見ているかのように目を少し開けて、とても穏やかな顔をしているので
母さんはいつしか眠ってしまいました。

翌日5日の午前3時前、パッと目が覚めましたが、かりんに変わりはなく薄目を開けたまんま。
口をモゴモゴさせたので水を少し垂らすと、ゴクンと大きく喉が動き水を飲んだようでした。
が、次の瞬間、茶色を帯びた黄色の液体を大量に吐き、苦しそうに口をカッと開けました。
その後、胸の上下動が確認できなくなったので、いよいよ…と思いKちゃんを起こしました。
しかし、Kちゃんの声が聞こえたからなのか、再び胸が動き始めて落ち着いた様子になりました。

この日は仕事だったのですが、母さんが帰ってくるまで頑張ってくれるかわからないので
後悔しないよう仕事を休むことに決めました。

午前9時頃、2階でパソコンに向かう母さんの部屋に連れて上がりました。
静かな呼吸で、薄目を開けたまま横になっています。
母さんは、数十分おきにかりんの横に寝そべっては話しかけ、撫でたりしながら過ごしました。
かりんの鼻先から聞こえてくるのは、規則正しく静かな息遣い。
命が尽きようとしているなんて、悪い夢をみているのではないかと思ってしまうような
穏やかで優しい寝姿でした。

睡眠不足で午後からは酷い眠気に襲われ、かりんと「頭をこっつんこ」して横になると
母さんはしばらくうつらうつらしてしまいました。
午後3時40分頃、口をモゴモゴさせたのがわかったのでシリンジで水を垂らしてやると
再び黄色の液体を大量に吐いて、胸の動きがパタリと止まってしまいました。
そして、静かに喘ぐように口を何回かパクパクさせました。

午後3時50分、かりんは母さんが見守る中、旅立っていきました。
この時、母さんの胸に押し寄せたのは、哀しみと同じくらいの安堵の気持ちでした。

かりんは、信じられないくらいよく頑張ってくれました。
本当に本当に…ありがとう。

豪雨の記憶

この度の豪雨で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。

梅雨の時期、豪雨災害のニュースを目にする度に思い出すことがあります。

私の生家は裏手に山を背負っており、梅雨末期の豪雨で三度の山崩れに遭いました。
一度目は私が小学生の頃で、家の横が崩れただけで家屋に被害はありませんでした。
しかし、その11年後、山側の部屋と座の下に大量の土砂が流れ込む被害に遭い
さらに5年後の豪雨で、家屋が土砂に押し潰されて全壊となりました。

三度目の罹災時には両親だけが住んでいましたが、それまでの経験から早めに避難しており
危うく難を逃れることができました。
それでも、避難してから2時間後に山崩れが起きたそうです。

さて、その頃、私の生家には柴犬が2匹おりました。
外飼いだったので鎖で係留していましたが、両親は鎖を外して2匹を自由にさせてから
道路を挟んだ自宅とは反対側の場所へ避難したそうです。

雨が止み、山崩れの心配がなくなった数日後、私も一緒に現場へと向かいました。
壊れてしまった生家に愕然としましたが、私にはそれをも上回る心配なことがありました。
それは、愛犬たちのことでした。

現場に着いたら真っ先に、大きな声で2匹の名前を呼び続けました。
鎖を外し自由になっているので、本能的に逃げ伸びてくれているだろうとは思いつつも
心のどこかでは「もしや…」という不安もよぎりました。

でも、少しすると、2匹が尻尾を振りながらこちらへ駆けてくるではないですか!
泥だらけの2匹が、この数日をどうやって過ごしていたのか知るすべもありませんが
自分たちの家があった場所を離れてしまうことなく、迎えを待っていたのでしょう。

今でこそ、愛犬を連れての避難は当然のようになっていますが、30年以上も前のことなので
置き去りにしてしまったのは、仕方のないことだったのかもしれません。

その後、両親は隣市に家を建て、愛犬たちも共に暮らし長生きしてくれました。
かりんと出逢う、ずっと前の出来事です。