幻の家族記念日

今日2月23日は、かりんを我が家に迎えた【家族記念日】です。
でも、もうここにかりんはいないので、今回からは幻の記念日となってしまいました。

私が高校生の頃から、実家には常に柴犬がいたのですが
独立して大人になってから、自分の責任において共に暮らした犬はかりんが初めてでした。
「絶対に室内飼い」と決めていたのですが、それゆえに大変なことや戸惑うこともあり
必ずしも、最初っから「犬と暮らすこと」を謳歌できていたわけではありませんでした。

それでも、月日を重ねていくうちに当初のような大変さはなくなり
新たな驚きや喜びなど、小さな幸せが散りばめられた日々になりました。
かりんには、「犬と暮らすこと」の素晴らしさを
これ以上ないくらい、たくさんたくさん教えてもらった気がします。

<本日のかりん:8歳>

私が犬を迎えたいと思った頃、貰い手が見つからなかった幼いかりん
保護主さんに引き取られました。
この、どちらかのタイミングがズレただけで出会いはありませんでした。

私にとって、かりんは特別な犬です。
これまでも、そして…これからも。

もふもふ欠乏症

純粋な柴犬よりもトップコートが少なくて柔らかめだったのか
それとも、アンダーコートが多かったのかわかりませんが
かりんの毛はふんわりとしていて、とても柔らかでした。

ですから、かりんに触れると同時に「わぁ~、柔らか~い♪」と
多くの方が言ってくださいました。

<本日のかりん:9歳>

晩年は痩せっぽちになり、肋骨が浮き出るまでになっていましたが
その柔らかくてもふもふな毛のお陰で、それほど目立ちませんでした。

かりんの毛の触り心地は、今でもこの手の中に思い出すことができます。
でも、実際に触れたくて触れたくてたまりません。
只今、【もふもふ欠乏症】にさいなまれている私。
散歩している柴犬さんを見ると、吸い寄せられそうになっちゃいます。

さて、店頭には春の花々が並ぶようになってきました。

<ラナンキュラス モロッコ、スィートピー、ホワイトレースフラワー>

以前から花は好きでしたが、日常的に花を買っていけるという習慣はありませんでした。
でも今は、かりんのお陰で室内に花を飾る楽しみができました。

思い出のオモチャ箱

かりんの思い出を綴っていこうと思ったものの、はたと困ってしまいました。
それは何かというと、画像のチョイスです。

かりんがいた頃は、その時々のことをその時々の画像と共に綴っていたので
「どの画像にしようかな?」と具体的に悩むことはあったのですが
今は、書きたいことが頭に浮かんでも、イメージする画像があるのかないのか
あったとしても、どのフォルダを探せばよいのかまったくもってわかりません。

撮りためていたまんまになっていたかりんの画像を、少し前から整理し始めているのですが
あまりにも多すぎるのに加え、懐かしくて思わず見入ってしまったりするものですから
あっという間に時間が経ってしまいます。

時間を行ったり来たりしながらあれこれ画像を見ていると
鮮明に思い出せることもあれば、すっかり忘れていたりすることも。

まるで、思い出が詰まったオモチャ箱をバーッとひっくり返して
ひとつひとつ手に取っているような、そんな感覚になってきます。

さぁ~、何が出てくるかな?
少しずつ少しずつ、綴っていきましょう。
こうしている瞬間、紛れもなくかりんは私のそばにいるのです。

<本日のかりん:1歳・2歳>

3か月

かりんが旅立ってから3か月が経ちました。
3か月という月日はとても長かったような、また、驚くほどあっという間であったような
両方が入り交じったような不思議な感覚と共に過ぎていきました。

私は美味しくご飯を食べ、仕事に行き、可笑しいことがあればお腹を抱えて大笑いしますし
かりんのいない寂しさだけに浸ることなく、ごくごく普通に日々を送っています。
でも、かりんがいなくなってポッカリ空いてしまった穴は…そのまんまです。

喉の奥にずっと引っかかったまんまの「かりんのいない寂しさ」を
思い切ってゴクンと飲み込んでしまうのも、これまた寂しい気がして
何度も何度も反芻してしまいます。

絶対に哀しくなってしまうから、わざわざ思い出さなくてもよいのに
むしろ忘れてしまってもよいくらいだと思うのに
しばしば、かりんの最期の時を事細かく思い出そうとします。

それは、決してネガティブな気持ちからではなく
かりんは生きて確かにそこにいたけれど、別の次元へ旅立ったのだと
自分に言い聞かせ、それを再確認するためなのかもしれません。

かりんは変幻自在な存在になりました。
私がかりんを思う時は、いつでもどこでもそばにいてくれるのですが
この世で生きているのとは違い、私の記憶の中でしか生きていないので
やっぱり、寂しくて寂しくてたまりません。

命の灯が消えようとする時、大声で何度もかりんの名前を呼びながら
身体を撫でたり揺すったりしました。
まるで、命が尽きるのを懸命に食い止めようとするかのように。
でも、決して苦しそうではないかりんの柔らかな表情を見ていたら
ふっ…と気持ちが変わりました。
このまま静かに穏やかに見送ることが、私の大事な役目なのだと。

そうそう、別れの時、かりんの耳元で私が咄嗟にささやいた言葉は
「虹の橋で待っててね」ではなくて、「帰っておいで」でした。
はてさて、この言葉はかりんの耳に届いているでしょうか。