かりんが旅立ってから3か月が経ちました。
3か月という月日はとても長かったような、また、驚くほどあっという間であったような
両方が入り交じったような不思議な感覚と共に過ぎていきました。
私は美味しくご飯を食べ、仕事に行き、可笑しいことがあればお腹を抱えて大笑いしますし
かりんのいない寂しさだけに浸ることなく、ごくごく普通に日々を送っています。
でも、かりんがいなくなってポッカリ空いてしまった穴は…そのまんまです。
喉の奥にずっと引っかかったまんまの「かりんのいない寂しさ」を
思い切ってゴクンと飲み込んでしまうのも、これまた寂しい気がして
何度も何度も反芻してしまいます。
絶対に哀しくなってしまうから、わざわざ思い出さなくてもよいのに
むしろ忘れてしまってもよいくらいだと思うのに
しばしば、かりんの最期の時を事細かく思い出そうとします。
それは、決してネガティブな気持ちからではなく
かりんは生きて確かにそこにいたけれど、別の次元へ旅立ったのだと
自分に言い聞かせ、それを再確認するためなのかもしれません。
かりんは変幻自在な存在になりました。
私がかりんを思う時は、いつでもどこでもそばにいてくれるのですが
この世で生きているのとは違い、私の記憶の中でしか生きていないので
やっぱり、寂しくて寂しくてたまりません。
命の灯が消えようとする時、大声で何度もかりんの名前を呼びながら
身体を撫でたり揺すったりしました。
まるで、命が尽きるのを懸命に食い止めようとするかのように。
でも、決して苦しそうではないかりんの柔らかな表情を見ていたら
ふっ…と気持ちが変わりました。
このまま静かに穏やかに見送ることが、私の大事な役目なのだと。
そうそう、別れの時、かりんの耳元で私が咄嗟にささやいた言葉は
「虹の橋で待っててね」ではなくて、「帰っておいで」でした。
はてさて、この言葉はかりんの耳に届いているでしょうか。
hako様
こんにちは、年明けに老柴マサムネを失い、いきなりコメントさせて頂いたさちです。
その後、私も自分でも不思議なくらいに意外と大泣きする事も無く、普通に生活しております。
でも、hakoさんがおっしゃる様に確かに心に一つ穴が開いてしまった感覚があります。
考えても、人に言ってもどうしようもない事は分かっているので普段は蓋をしているけれど、ひとりのときや夜中にふと目が覚めた時、穴に吸い込まれそうになります。
この先、埋まってゆくのか、ずっと穴のままなのかもわかりませんが、あの子と過ごした歴史として穴のまま残ってくれるのも悪くないと思っております。
私より2か月程先を歩かれているhakoさんの心の移り変わりは、お聞かせいただけるととても心が休まります。
かりんちゃんのお写真、どれもとっても可愛いです。
うちのマサムネも年をとり介護が必要となった頃から顔から精悍さが消え、子犬の様なぬいぐるみみたいな顔に変わりました。
しかし、こういう時、仕事が有るのは救われますね。
今後もhakoさんのブログの更新を楽しみにしております。
さちさん へ
マサムネくんを見送られてからの、さちさんの日々のご様子を
「あぁ…同じだ」と思いながら読ませていただきました。
哀しみとの向き合い方は、人によってそれぞれ違うのだと思いますが
さちさんと私は似ているのかもしれません。
「ひとりの時や夜中にふと目が覚めた時」不意に押し寄せてくる喪失感は
未だに奈落の底に落とされてしまうような感覚があります。
マサムネくんがいなくなり、さちさんの心の中に空いてしまった穴は
マサムネくんでしか埋められることのできないものであって
もしかすると、何をもってしても埋まることはないのかもしれません。
でも、おっしゃるようにそれはそれで良いのだと私も思います。
その穴の入り口も、いつしか優しく柔らかな苔で覆われていき
そっと覗くと、幸せな記憶が湧き出る場所となって欲しいと願っています。
まだまだ時間はかかるかもしれませんが。
かりんを見送ってから最初の出勤の日、自分は平静でいられるのだろうかと
ちょっぴり不安もあったのですが、まったくもって普通に過ごせました。
それでも時々、急に寂しさが込み上げてきそうになりましたが
マスクがそれを上手い具合にカバーしてくれましたし。(笑)
私も仕事に行かなければならないことで、かなり助けられた気がしています。
共に年月を重ねた老犬の愛らしさは、子犬にも勝ると思っています。
子犬のようなぬいぐるみのようなお顔になったマサムネくん、可愛かったでしょうね。
hakoさん、かりんちゃん、こんにちは。
最期にまるこに掛けた言葉は「ありがとう」と「ずっと一緒だよ」
ちゃんとここへ帰って来られるようにと首輪には名札を着けたまま送ってやりました。
虹の橋での再会までは、とても待ちきれません。
「これからも、いつも、ずっと一緒」という想いはhakoさんと同じですね。
かりんちゃんとまるこに、私たちの心と言葉が届いていますように!
「あの子と過ごした歴史として穴のまま残ってくれるのも悪くないと思っております」とおっしゃる“さちさん”のお気持ちもとてもとてもよく分かります。
この子等と出会い、過ごし、愛した証ですものね。
まるこ母さん へ
まるこ母さんの「虹の橋での再会までは、とても待ちきれない」というお言葉。
私も同じ気持ちかもしれません。
「帰っておいで」という言葉は、生まれ変わって…という意味でもあるような
姿は見えなくてもそばにいて…という意味でもあるような
自分でもハッキリ言ってよくわかりません。(笑)
でも、書いてくださったように「ずっと一緒」の気持ちは同じですね。
かりんがいなくなり、心にポッカリと空いてしまった穴。
最初は、どうしたら埋められるのかということばかりを考えていましたが
私にとってのその穴は、かりんでしか埋められないことに気づきました。
ですから、その穴とはこれからもつき合っていくことになるのだと思います。
今は大きな喪失感と共にあるポッカリですが、幸せな思い出と共にあるポッカリに
時間をかけて変わっていくだろうと信じています。
かりんちゃんが旅立って
そっか!3カ月になるんですね。
やっぱり寂しいですよね。
ちょっと姿は見えなくなっちゃったけど
かりんちゃんはずっとこれからもhakoさんたちに
寄り添ってくれてると思います。
楽しい思い出いっぱいだもんね。
ふくねえさん へ
いつになったらこの喪失感から抜け出せるのだろうか…と考えてしまいます。
でも、心のどこかでは抜け出してしまいたくない気持ちもあり、何とも複雑です。
散歩している柴犬さんを見ると、懐かしさと羨ましさとでいっぱいになり
フラフラ~ッと寄って行きたくなっちゃいます。(笑)
毛むくじゃらさんを撫で撫でしたくてたまりません。
たまには夢に出てきてくれても良さそうなのに、一向に出てきてくれません。
「だって、そばにいるじゃん」って言ってるかもね。
もう三か月もたったのですね。
年末年始があった分、気持ちがまぎれる時間があったかな。
ぽっかり空いた穴、埋まりませんね、
時折、思い出しては、あの時こうしとけばよかったかなと悲しくなったりします。
私は母が亡くなった時、かなり覚悟していたつもりでしたが、いまだに穴はふさがりません。
こうして、心の中で生きているのでしょうね。
yushipapaさん へ
かりんを見送ったのは、もう随分前のことのようでもあります。
年末年始、妹家族が帰省してくれたことで寂しさが紛れましたし
仕事に行くことで、かりんのいない寂しさを忘れる時間が持てました。
ポッカリ空いた穴は、そう簡単には埋まらないのかもしれません。
でも、無理して埋める必要もないのだと、改めて思いました。
yushipapaさんも書いてくださったように、心の中にポッカリ空いた穴は
yushipapaさんのお母さまそのものでもありますものね。
今は、思い出して哀しくなることのほうが多いかもしれませんが
いつしか懐かしい思い出へと昇華していくのだと信じてやみません。
あれから三か月が経つんですね。
ぽっかり空いた穴、いろんな想いがすり抜けて
さみしさやかなしさはなくなることなく
歳月が経って、むしろそれが大きくなったり
砂浜に打ち寄せる波のように、いろんな想いに
抱かれるのでしょうね。
かりんちゃん、お母さんが「帰っておいで」って。
いつでもそばにいて、そっと寄り添ってね。
れんママさん へ
おっしゃるように、哀しみや寂しさは大波になって押し寄せたかと思うと
嘘のように凪になったり…の繰り返しかもしれません。
日々、気持ちが揺らぎながら過ごしている感じがしています。
空いてしまった穴は、かりんでしか埋めることができないのだと
今はそんなふうに思っています。
でも、その穴の存在をふと忘れてしまうような瞬間が少しずつ積み重なり
ポッカリ空いていた穴も、大きな哀しみでしかない状態から
懐かしくて温かくて柔らかいものへと変わっていくのかもしれません。