3か月

かりんが旅立ってから3か月が経ちました。
3か月という月日はとても長かったような、また、驚くほどあっという間であったような
両方が入り交じったような不思議な感覚と共に過ぎていきました。

私は美味しくご飯を食べ、仕事に行き、可笑しいことがあればお腹を抱えて大笑いしますし
かりんのいない寂しさだけに浸ることなく、ごくごく普通に日々を送っています。
でも、かりんがいなくなってポッカリ空いてしまった穴は…そのまんまです。

喉の奥にずっと引っかかったまんまの「かりんのいない寂しさ」を
思い切ってゴクンと飲み込んでしまうのも、これまた寂しい気がして
何度も何度も反芻してしまいます。

絶対に哀しくなってしまうから、わざわざ思い出さなくてもよいのに
むしろ忘れてしまってもよいくらいだと思うのに
しばしば、かりんの最期の時を事細かく思い出そうとします。

それは、決してネガティブな気持ちからではなく
かりんは生きて確かにそこにいたけれど、別の次元へ旅立ったのだと
自分に言い聞かせ、それを再確認するためなのかもしれません。

かりんは変幻自在な存在になりました。
私がかりんを思う時は、いつでもどこでもそばにいてくれるのですが
この世で生きているのとは違い、私の記憶の中でしか生きていないので
やっぱり、寂しくて寂しくてたまりません。

命の灯が消えようとする時、大声で何度もかりんの名前を呼びながら
身体を撫でたり揺すったりしました。
まるで、命が尽きるのを懸命に食い止めようとするかのように。
でも、決して苦しそうではないかりんの柔らかな表情を見ていたら
ふっ…と気持ちが変わりました。
このまま静かに穏やかに見送ることが、私の大事な役目なのだと。

そうそう、別れの時、かりんの耳元で私が咄嗟にささやいた言葉は
「虹の橋で待っててね」ではなくて、「帰っておいで」でした。
はてさて、この言葉はかりんの耳に届いているでしょうか。

ワン・クッション

6年前にアルツハイマー型認知症と診断され、要介護1との介護認定を受けながらも
介護サービスを利用しつつ、なんとかかんとか独り暮らしを続けている私の母。
実家から100キロ少し離れた所に住む私は、ほぼ2週間おきに母の様子を見に帰省します。

母は今さっき話したことや体験したことを、信じられないくらい見事に憶えていません。
ですから、壊れたレコードのように同じ話を幾度も繰り返し、同じことを何度も尋ねます。
それでも、イラッとする気持ちを抑えつつ、そこそこ上手く対応できていたのです…今までは。

しかし、ここ最近、イラッとする気持ちを持て余すようになってきて
同じ話を繰り返す母と向かい合うことが、きつく思えてきたのです。
「なんで?」と考えていたら…答えが見つかってしまいました。

そうです!かりんがいないからなのです。
母との会話や対応にイラついたとしても、そこに寝そべるかりんがいたり
かりんの世話をすることで、気持ちがリセットされていたのです。

かりんは、ギスギス・トゲトゲした私の心をふわっと受け止めてくれる
柔らかくて温かい【ワン・クッション】でもあったのです。

先々月からかりんの姿がないのに、まったくもって気づく様子のない母。
かりんがいたことすら忘れてしまったの?
それでも、「あれっ、かりんちゃんは?」の一言を期待してしまいます。

足りない…ひとり

この年末年始は、積雪での通行止めを避けながら妹一家が帰省してくれて
一年前と同様、賑やかで楽しいひとときを過ごしました。
ただひとつ違ったのは…そこにかりんはいないということ。

実家の居間で、みんな揃ってくつろいでいる時のふとした瞬間
「これで全員…だっけ?」と何度も思い、人数を確認しました。
でも、間違いなく全員揃っていました。

今までも、同じ空間にいつもかりんが一緒にいたわけではないけれど
確かにかりんは存在していました。
私が「足りない」と感じたそのひとりは、かりんだったのでしょう。
妹一家を送り出して我が家へと向かう途中、今まで見たこともないような
濃くハッキリとした大きな虹が目に飛び込んできました。

「みんなイッショで、すっごくたのしかったね~♪」
お耳ペッタン、尻尾フリフリのかりんが見えた気がしました。

迎春

主のいなくなったブログを、どうしたものかと悩んでいました。
共に過ごす時間は、かりんを見送った時に終わってしまいましたし
これから先、かりんの新たな写真が増えることはないですから。

でも、私にとって【かりん工房】は、かりんがここにいた証であり
いつでも、その時々のかりんに会える大切な拠り所でもあります。

もしかすると、まだ語っていなかったかりんを思い出すかもしれないし
懐かしい写真や動画が出てくるかもしれません。
ですから、これからも心のままに綴っていけたらと思っています。

…というわけで、本年もよろしくお願いいたします!

哀しみの向こう

何の根拠もないのに、ただ何となく漠然と、今年も一緒に年を越せると思っていたのですが
かりんのいない、寂しい年越しとなってしまいました。

朝昼晩のご飯作りやご飯を食べさせたり、愚図り始めると体勢を変えたりなだめてみたり
夜中に鳴き始める度に膝の上にのせて身体をトントンしたり…。
そんなかりんの日々の世話から解放された生活にも、すっかり慣れてしまいました。
しかし、「かりんがいない」ということそのものには、なかなか慣れることがありません。

よく、「哀しみを乗り越える」という表現を耳にするのですが
私にとって哀しみは「乗り越える」というよりも、常に隣にあって
強く感じたり薄らいだりしながら、一緒に歩いていく感じがしています。
そして、そのうち…哀しみの向こうにいることに気づくのかもしれません。

今日から実家へ帰ります。
目には見えないかりんも一緒にきてくれることと思います。
みなさま、どうか良いお年をお迎えください。