哀しみの向こう

何の根拠もないのに、ただ何となく漠然と、今年も一緒に年を越せると思っていたのですが
かりんのいない、寂しい年越しとなってしまいました。

朝昼晩のご飯作りやご飯を食べさせたり、愚図り始めると体勢を変えたりなだめてみたり
夜中に鳴き始める度に膝の上にのせて身体をトントンしたり…。
そんなかりんの日々の世話から解放された生活にも、すっかり慣れてしまいました。
しかし、「かりんがいない」ということそのものには、なかなか慣れることがありません。

よく、「哀しみを乗り越える」という表現を耳にするのですが
私にとって哀しみは「乗り越える」というよりも、常に隣にあって
強く感じたり薄らいだりしながら、一緒に歩いていく感じがしています。
そして、そのうち…哀しみの向こうにいることに気づくのかもしれません。

今日から実家へ帰ります。
目には見えないかりんも一緒にきてくれることと思います。
みなさま、どうか良いお年をお迎えください。