3か月

かりんが旅立ってから3か月が経ちました。
3か月という月日はとても長かったような、また、驚くほどあっという間であったような
両方が入り交じったような不思議な感覚と共に過ぎていきました。

私は美味しくご飯を食べ、仕事に行き、可笑しいことがあればお腹を抱えて大笑いしますし
かりんのいない寂しさだけに浸ることなく、ごくごく普通に日々を送っています。
でも、かりんがいなくなってポッカリ空いてしまった穴は…そのまんまです。

喉の奥にずっと引っかかったまんまの「かりんのいない寂しさ」を
思い切ってゴクンと飲み込んでしまうのも、これまた寂しい気がして
何度も何度も反芻してしまいます。

絶対に哀しくなってしまうから、わざわざ思い出さなくてもよいのに
むしろ忘れてしまってもよいくらいだと思うのに
しばしば、かりんの最期の時を事細かく思い出そうとします。

それは、決してネガティブな気持ちからではなく
かりんは生きて確かにそこにいたけれど、別の次元へ旅立ったのだと
自分に言い聞かせ、それを再確認するためなのかもしれません。

かりんは変幻自在な存在になりました。
私がかりんを思う時は、いつでもどこでもそばにいてくれるのですが
この世で生きているのとは違い、私の記憶の中でしか生きていないので
やっぱり、寂しくて寂しくてたまりません。

命の灯が消えようとする時、大声で何度もかりんの名前を呼びながら
身体を撫でたり揺すったりしました。
まるで、命が尽きるのを懸命に食い止めようとするかのように。
でも、決して苦しそうではないかりんの柔らかな表情を見ていたら
ふっ…と気持ちが変わりました。
このまま静かに穏やかに見送ることが、私の大事な役目なのだと。

そうそう、別れの時、かりんの耳元で私が咄嗟にささやいた言葉は
「虹の橋で待っててね」ではなくて、「帰っておいで」でした。
はてさて、この言葉はかりんの耳に届いているでしょうか。

メモリアルスペース

昨年の終わり、かりん新しいハウスを置くスペースを設けました。
そのメモリアルスペースを整えたり、花材を選んで飾ることが
今の私の、ささやかな楽しみのひとつとなっています。

<スプレーバラ、アルストロメリア、ソリダコ、カスミソウ>

そしてもうひとつ新たに加わったグッズが、【瓶型ソーラーランタン】です。
蓋の表面のソーラーパネルを日光に直接当てることで充電し、柔らかい光が灯されます。

瓶の中に好きな物を入れて楽しむことができるので、ドライフラワーを入れてみましたら
ただでさえ柔らかい光が、更に優しくて明るい光となりました。
かりん…喜んでくれているかなぁ。

さて、1年前の今頃、かりんの愚図りや鳴き声はいよいよ酷いものとなってきていました。
寝不足で頭がボーッとした日々を送っていたことが、実際に体験したとは思えないくらい
遠い遠い昔のことのように朧気でもあります。
よくよく探してみれば、大変だった頃の記憶は頭の中のどこかで見つけることができるけれど
真っ先に思い浮かべるのは、可愛くてたまらないかりんの様子ばかりです。

「ギャーギャーでタイヘンだったころのワタシは…わすれてね。
かわいくってイイコだったワタシを、ちゃ~んとおぼえていてね♪」
もしかすると、かりんがそう言っているのかもしれません。

タイルカーペット

私は比較的あっさりしている質だと、自分では思っていました。
なので、かりんが使っていたモノを淡々と片付けてしまうのであろうと
そんなふうに頭の中で想像していました。
しかし、実際には自分の想像とはまるでもって違っていました。

かりんが使っていたモノをとっとと片付けてしまうことは
かりんの思い出をも、心の奥底に追いやってしまうような気がして
(実際には、決してそんなことはないのですが)多少は整理したものの
今もあちこちに鎮座しています。
その中でも目につくのが、フローリングに敷いたタイルカーペットです。

自力歩行は勿論のこと、自力で立つこともできなくなってしまい
それでも、懸命にハイハイしながら移動しようとした時期がありました。
足元が滑らないようにと、かりんが移動する場所だけに敷きました。

そのカーペットの上を頑張って移動し、二進も三進も…いかなくなって
どうしたものかと思案している2年前のかりんです。
この頃の、頑張るかりんの姿はたまらなく好きでした。

「よいしょ、どっこらしょ!」
匍匐前進しながら、懸命にこちらへやってくるかりんの姿が見えるような
そんな気がしてきました。

ワン・クッション

6年前にアルツハイマー型認知症と診断され、要介護1との介護認定を受けながらも
介護サービスを利用しつつ、なんとかかんとか独り暮らしを続けている私の母。
実家から100キロ少し離れた所に住む私は、ほぼ2週間おきに母の様子を見に帰省します。

母は今さっき話したことや体験したことを、信じられないくらい見事に憶えていません。
ですから、壊れたレコードのように同じ話を幾度も繰り返し、同じことを何度も尋ねます。
それでも、イラッとする気持ちを抑えつつ、そこそこ上手く対応できていたのです…今までは。

しかし、ここ最近、イラッとする気持ちを持て余すようになってきて
同じ話を繰り返す母と向かい合うことが、きつく思えてきたのです。
「なんで?」と考えていたら…答えが見つかってしまいました。

そうです!かりんがいないからなのです。
母との会話や対応にイラついたとしても、そこに寝そべるかりんがいたり
かりんの世話をすることで、気持ちがリセットされていたのです。

かりんは、ギスギス・トゲトゲした私の心をふわっと受け止めてくれる
柔らかくて温かい【ワン・クッション】でもあったのです。

先々月からかりんの姿がないのに、まったくもって気づく様子のない母。
かりんがいたことすら忘れてしまったの?
それでも、「あれっ、かりんちゃんは?」の一言を期待してしまいます。

足りない…ひとり

この年末年始は、積雪での通行止めを避けながら妹一家が帰省してくれて
一年前と同様、賑やかで楽しいひとときを過ごしました。
ただひとつ違ったのは…そこにかりんはいないということ。

実家の居間で、みんな揃ってくつろいでいる時のふとした瞬間
「これで全員…だっけ?」と何度も思い、人数を確認しました。
でも、間違いなく全員揃っていました。

今までも、同じ空間にいつもかりんが一緒にいたわけではないけれど
確かにかりんは存在していました。
私が「足りない」と感じたそのひとりは、かりんだったのでしょう。
妹一家を送り出して我が家へと向かう途中、今まで見たこともないような
濃くハッキリとした大きな虹が目に飛び込んできました。

「みんなイッショで、すっごくたのしかったね~♪」
お耳ペッタン、尻尾フリフリのかりんが見えた気がしました。